レジデンシャル中島川ザ・テラス

Residential NAKASHIMAGAWA THE TERRACE

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コンセプト|CONCEPT

中島川を望む、人生の誇り。

HISTORY OF NAKASHIMAGAWA|長崎の歴史と情緒が静かに息づく、中島川界隈。

開港によって発展した街、長崎。その賑わいを支えた、中島川。
日本の近代化を支え、その礎となった長崎の街。元亀元年(1570)の長崎開港から出島がおかれた約200年間にも渡る鎖国時代、日本で唯一西洋に開かれた貿易の窓口として、さまざまな商品や人々が行き交い、独特の異国情緒あふれる文化が築かれていきました。中島川は、その時代から貿易のためになくてはならない水運の要でした。特に長崎港内に停泊した外国船からの荷揚げは小舟に小分けされて中島川を遡り、町ごとに陸揚げされ、商いの賑わいを支えたといわれています。中島川沿いには、今でもその頃の商家や町と寺社をつなぐように架けられた橋が残っています。
内町から外町へと、長崎を形成。今も残る情緒あふれる町並み。
元亀元年(1570)の長崎開港の翌年から、大村純忠の命によって、現在の長崎県庁の地である長い岬の一帯に「町建て」が行われました。そうして最初にできたのが内町と呼ばれる6町(大村町、嶋原町、平戸町、横瀬浦町、外浦町、文知町)です。その後、慶長2年(1597)には、内町に隣接した田畑を整地して外町と呼ばれる材木町(現賑町)、袋町(栄町)、酒屋町(栄町・魚町)の3つの町が誕生。その後、次々と外町建設は進み、長崎の発展を支える町を形成していきました。現在でも寺町・中通り界隈には、情緒あふれる町並みが残されています。
寺院、神社と町をつないだ中島川の石橋群。
観光の名所としてよく知られる眼鏡橋をはじめ、中島川の石橋群は、中島川沿いに並ぶ商家と風頭山のふもとに形成された寺社をつなぐように架けられたといわれています。眼鏡橋は興福寺の住職により造られた日本最古のアーチ型石橋。隣に架る袋橋も眼鏡橋に次ぐ古い石橋です。中島川の賑町電停から上流は、特にこれらの石橋が多く、中島川の川面と石積みの河岸、そして風に揺れる柳の緑が、美しい川沿いの風景を創り出しています。冬の長崎ランタンフェスティバルでは川面をオブジェが彩り、一年を通じて花や川風、美しい景観を楽しめる散策路です。
重要無形民俗文化財「長崎くんち」の踊町に名を連ねる賑町。
荘厳な御神幸と異国情緒豊かな奉納踊りで日本三大祭と称される「長崎くんち」。長崎の街をあげて賑わい、市民に愛され続けている諏訪神社、秋の祭典です。寛永11年(1634)に、ふたりの遊女が諏訪神社前に謡曲「小舞」を奉納したことが始まりといわれ、今では59カ町の踊町が7年に一度回ってくる当番によって奉納踊りを行ないます。賑町も踊町のひとつとして、傘鉾・大漁万祝恵美須船の奉納踊りを披露します。各踊町が市内の事業所や官公庁、民家などを巡り、短い踊りやお囃子で祝う様子なども見られ、人々を魅了し続けています。

※眺望は階数、タイプに、よって異なり、現在および将来にわたって保証するものではありません。詳しくは係員におたずねください。
※掲載の画像は平成27年10月に撮影した写真に外観完成予想図を合成し、CG加工したもので実際とは異なります。
※掲載の完成予想図は設計図を基に作成したもので形状・色等は実際とは異なります。なお、外観形状の細部、設備機器等は表現しておりません。また、敷地内のみ描いており、敷地周囲の電柱、標識、ガードレール等につきましても再現しておりません。また、表現されている植栽は竣工から初期の生育期間を経た状態のものを想定して描いております。竣工時は植物の生育を見込んで必要な間隔をとって植えております。
※徒歩分数は80m=1分で計算(端数は切り上げ)しています。

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